審美眼に関する一考察

花びらの散りつつあるなかに、若葉が芽生えようとしている。そんな桜が嫌いだった。

満開の桜を愛でるかたわら、日本人は昔から「葉桜」とか呼んで、これはこれで趣を感じていたらしい。「青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば」と西行も詠んでいる。でもそれは、鮮やかな花のいろが良いと認識しているからこそ、今となっては見ることのできぬ花を葉桜の姿の奥に見出すことに心が動くのであって、葉桜そのものに美を感じることができるのか、甚だ疑問だった。まして、冒頭にも述べた、鮮やかな桜の花が散りつつある隣で青い若葉が芽生えようとしている状態には、なにか説明のつかない不気味さを感じて、僕は嫌いだった。

満開の桜を美しいと思うのは、正常な日本人が持つ美意識だ。薄い桃色や真っ白な花びらが見渡す限り広がり、やさしい光が文字どおりやさしく目に飛び込んできたとき、我々は安心感を得る。心が洗われるとは稚拙な表現だが、そういう感じである。そしていま目の前に映る花びらたちが、近いうちに、いやもしかしたら明日にでも散ってしまうと気づけば、鮮やかな存在と儚さのギャップがなお我々の心を突き動かしてくる。桜の美しさは、調和されたやさしさと、背後にある儚さに裏打ちされているのである。

いっぽうで「鮮やかな桜の花が散りつつある隣で青い若葉が芽生えようとしている状態」は見るに耐えない。ピンクの横に濃厚な緑である。コントラストの差がエグい。どう見たって調和が取れていない。儚さの隣になにか生臭い感じのものが鎮座している。僕はこれを美しいと感じることができなかった。

嫌いだった、できなかった、と書いているのは、最近は意識に変化があったからだ。ピンクの横に緑という絵ヅラそのものは、やっぱりエグい。でもこれはこれで美しいのかもしれぬ。

生き物にとって、いちど枯れ果てた状態から復活し、なにごともなかったように生き生きと暮らすのは並大抵のことではない。再生の過程においては、起き上がろう、でも起き上がれない、三歩進んで三十歩下がるという水前寺清子もびっくりな輪廻を繰り返すのが常であって、場合によっては、自分はもうだめだと再生の途をリタイアする者も大勢いる。その必要なエネルギーの量たるや。だから再生は難しい。

37歳を過ぎて自身に芽生えはじめた感覚だが、生き物が再生しようと苦悶している姿は美しい。「生き物が再生しようと苦悶している姿は美しい(キリッ)」なんて、言葉だけは10代でも20代でも口にできるのだろうけども、迷いのない感覚として腑に落ちたのはここ最近である。だからこそ「鮮やかな桜の花が散りつつある隣で青い若葉が芽生えようとしている状態」への見方も変わってきた。儚さの隣にある生臭い感じ、いいじゃないか。消えゆく存在とエネルギーの共存。いいじゃないか。

審美眼にこれまでの自身の感覚と対極するものが加わったのは初めてだったので、思わず記録に留めたくなって書いた。

1987年12月8日、熊本生まれ。高校時代から「晩白柚」というハンドルネームでブログを書いていました。長らくうつ病性障害を患っています。好きなものはビール、ひとり飲み。

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