36歳になって

縁側に立って煙草を吸いながら前に広がる庭に目をやると、片すみに一鉢のプランターが置いてあった。その中に植えられたパセリは、収穫時期をとっくに迎えているのに長く放置されているのか、色はいよいよ緑から黄に移り、ほかに伸びる場所がないのでお互いの葉が苦しそうにひしめき合っている。

令和5年の11月だったか、僕の叔母という人がこの家の新たな住人になった。彼女は僕の母の妹にあたり、3人の子ども達、つまり僕の3人の従兄弟の母である。今から30年ほど前、いちばん下の子を生んですぐ彼女は彼らを置いて愛知へ行ってしまった。だから顔をほとんど覚えないまま居なくなった彼女を彼らは恨んでいるし、僕もまた物心ついた時に彼女はいなかったので、彼女の顔をしっかりと見たのは今回がはじめてだった。パセリはそんな彼女がこの家にやってきてすぐの頃に植えたものである。

令和4年の民法改正によって、我が国における成人年齢は18歳になった。となると36歳は二度目の成人式である。平均寿命が伸び続けている現代にあっては、まだまだ折り返し地点に来ているかすらビミョーな年ではあるが、36歳ともなると生きる意味とか人生とはなにかとか、いろいろ考えちゃうのである。

なぜ人は生きるのだろう。

科学的な観点から「なぜ人は死ぬのか」という問いに一定の答えを出すことはできるようだ。というのも、九州大学の遠い先輩で今は東京大学で生命科学の教授をやっている小林武彦という人が「生物はなぜ死ぬのか」なる本を書いていて、その内容を要するに、生物は進化するために死ぬのだという。死ぬことを幾星霜も繰り返すなかで、弱きが淘汰され強きが残ってゆく。そうして我々は進化してきた。だから僕が死ぬことは、人がこれから進化するために必要なことのひとつだと意味づけはできるかもしれない。

だがそれは「なぜ死ぬのか」に対する答えのひとつであって「なぜ生きるのか」への答えではない。そもそも弱者が淘汰されて死ぬ傾向が高いという事実だけをもって「死は進化のための大きなファクターだ」と結論づけるのはちと強引だ。人がなぜ生きるのかという命題を科学で解明するのは、やはり現代人にはまだ難しいようだ。

現代科学で解明できないのであれば、古代の科学はどうだろう。古代の科学とはすなわち、仏教でありキリスト教でありイスラム教である。後の二者については詳しく知らないので言及を避けますけども、仏教において生きることは四苦八苦が付きまとうとブッダは言った。人間生きてるうちはその苦しみから逃れられない。どんなにイケメンでもどんなに金持ちでも、人である限り人としての苦しみを背負わざるを得ないのだ。

僕もここ数年はとりわけ五蘊盛苦に苦しめられている。なぜ僕は人に生まれてきてしまったのか。輪廻転生という魂リサイクルシステムが実在するとして、この世には無数に生物の住む星が存在するから、また地球に戻ってくることはおそらくもうないだろうけど、もし還ってこれるのなら花になりたいよ。花に四苦八苦はないし、ただただまわりの虫たちを魅了するだけなのだから。人と違って花は自ら身動きがとれないから、生きるのがつまらないだろうと言う者がいるかもしれないが、相対性理論によれば動くスピードが遅い者ほど時間の流れは速いから、花は花なりに気にならない時間感覚で毎日を送っているんじゃあないか。

話を戻そう。とにかく人は生きている限り苦しみから逃れられない。それは(255,255,255)のRGB値よりも白く明らかなのに、なぜ人は子孫を残すのだろう。いやもちろん種として自分を残さなければならないという生物の使命から、親は子を生むのでしょうけど、子からすれば否応なしにこの世に産み落とされ、否応なしに苦を背負う。子からすればそれはたまったもんじゃない。親には生むか否かの選択権があるが、子に生まれるか否かの選択権はないのである。

僕は3人の従兄弟ともう十数年と会っていない。なぜ彼らがこの城南の家に寄り付かなくなったのか、わからないようでわかる感じだが、きっと彼らが人として生まれてきてしまったがゆえの苦しみに苛まれているのだけは確信している。それを思うと僕は子を作る気がとてもしないのである。

関心を向けられず放置されたパセリは今なにを思っているだろうか。それはパセリだけが知っている。

1987年12月8日、熊本生まれ。高校時代から「晩白柚」というハンドルネームでブログを書いていました。長らくうつ病性障害を患っています。好きなものはビール、ひとり飲み。

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