人間の複雑な思考回路
昔、羽生善治さんが「大局観」の中で「プロ棋士として、相手の100手ほど先までは常に読みながら指している」と仰っていた。
プログラミングではだいたいどんな言語にも「もしAがBならばCせよ、そうでなければDせよ」というようなIF文が実装されているが、ミジンコやゾウリムシといった下等な生物の頭の中にも簡単なIF文が備わっているのだと思っている。もし目の前に餌と思われる物体が現れたなら直ちに捕獲せよ、もし命にかかわる緊急事態に身が置かれたら即座に周囲の動きを止める体液を放出せよ、というような。彼らの脳みその体積からいって、そこに複雑な意思決定はないのだろう。
いっぽうで人間の思考回路は複雑だ。いや僕のように単純明快な人間は、目の前にチョコレートが出されれば今日のカロリー摂取量を気にせず反射的に口に入れるし、飲み屋で隣に女の子が座れば社会的な目線を気にせず反射的に口で説きつけようとする。なにひとつ複雑な回路など持ってはいないのだが、世間の諸兄におかれては「もしAがBかつCかつDになるか、EかつFかつGになるならば、HかIかJをするが、そうでないならKかLかMをする。だがそのMというのはNが‥(以下略)」という複雑な問答を日々しているに違いない。
プロ将棋の対局というのは、対等な立場の者が、これほど複雑な思考回路を100歩先まで読み合って行われる。100歩先、というのはプロでしかもあの羽生さんが言っていることなので、常人にマネできることではない。だが人間同士の真剣なコミュニケーションは、時にそれほどまで複雑な思考の読み合いが必要になるのである。
悩める者へのワイルドカード
ここからの話はなにも裏付けとなる証明はない。ただ36年間生きてきたうえで感じたことを書いてるだけですのでご了承ください。
悩みの相談に乗ってくれる人で「まあしょうがないんじゃない?くよくよ悩んでも仕方ないよ。切り替えて行こう」とアンサーを出してくる人がいる。これらの人はたいてい人生経験が浅く、だがプライドは高い。悩みを解決する手段を提案することはできないが、達観視した答えを言わねばと躍起になっているので、悩んでいること自体が愚かなことだよというそもそも論を提案をしてくる。
「まあしょうがないんじゃない?くよくよ悩んでも仕方ないよ。切り替えて行こう」はトランプのジョーカー的なワイルドカードである。相手のどんな悩みに対しても出すことができる。相手が恋人に振られてしまった場合でも、相手がスポーツの選手権に敗れてしまった場合でも、相手がアメリカ大統領選で敗れてしまった場合でも、相手が国の威信をかけたH3ロケットの打ち上げに失敗してしまった場合でも。これを出してさえしまえば、自分の神聖な立ち位置は守られるし、相手がどんなに複雑で高度な悩みを持っていたとしても「たしかにそうやな‥」とならざるを得ない。
どんな悩みも最終的には忘れて次に進まねばならないのは確かなので、「しゃーない。切り替えていけ」はザ・正論ではある。相手はぐうの音も出ない。だが相手の相談に乗り、悩みを解消し、導くというのはそういうことではない。世の中の9割9部の方々は、悩みをすぐに忘れられないから、本当はくよくよしたくないのにそうしてしまうから、簡単に切り替えることができないから悩んでいるのだ。
上に書いたとおり、人間同士の真剣なコミュニケーションは、時にプロ将棋の対局の如く複雑な思考の読み合いが必要になる。だから相手の相談に乗るということは、本来莫大なエネルギーを要するのだが、巷では案外簡単に思われている。自分の積み上げた経験と照らし合わせながら、相手の複雑な思考を読み解くのは決して簡単ではない。少なくとも僕はそういう難しくて責任が伴うことを相手に任せるのは申し訳ないので、誰かに相談に乗ってほしいとはまず思わない。莫大なエネルギーを使うこの仕事をやり遂げる自信もないので、懇意でない人の相談にも安易に乗らないことにしている。
本当にお悩み相談に必要なこと
いま巷で叫ばれる「傾聴」についても、思うことを書いておきたい。
相談に乗り、悩みを解消し、導くうえで必要なことは2つあると思っている。経験とテクニックだ。
経験
たとえば、今から出す例はだいぶ極端ではあるが、相手が新人の自衛隊員で、課題として示される銃の早急な分解ができず上官から怒られた、だがどうやっても早く分解することができないという悩みを持っていたとする。かたや今の僕は企業の経理マンなので、具体的な解決策はいっさい思いつかない。言えるのはせいぜい「まあしょうがないんじゃない?くよくよ悩んでも仕方ないよ。切り替えて行こう」である。
だがもし僕の過去に入隊経験があれば、銃の分解はああすると早かったと思うよといったアドバイスができるだろう。そこまでいかなくても、僕が石破茂のような軍事オタクで、少しでも武器に関する書物を読み漁っていれば、彼の悩みを緩和するなにかしらの話ができるかもしれない。
次は多くの部隊を引き連れる一佐が相談に来たとする。各国の今後の動きを見据え、部隊の編成をどのようにすべきか悩んでいる、と打ち明けられたらどうだろう。企業でマネージャーを長年やっていれば、組織を束ねることについて多少の助言はできるかもしれない。だが軍事・政治・地政学など各分野に相当深く精通していなければ、その相談に乗ることはとうていできないはずだ。
じゃあ今度は、路上パフォーマーの友人から人を惹きつける芸の極意について相談を受けたら?‥‥‥。的確なアドバイスをするためには、ひとつの分野だけを深く知っておいてもいけない。広い分野を浅く知っておくだけでもいけない。様々なジャンルの経験をできる限り深く行っておくということに尽きる。途方もないことだが、相談に乗るというのは本来それだけ骨が折れることなのである。
テクニック
他方、「傾聴」はテクニックに属するものだ。たしかにテクニックは重要ではある。僕も相手の話を聞くとき、ニュースJAPANの滝川クリステルよろしく、相手に対して斜め45度に座るようにしている。そういう文字どおり姿勢を傾けることはやっているが、巷でいうところの傾聴はあまり意識してやってはいない。
最近、X(旧Twitter)で「傾聴嫌い」に関するポストが話題を呼んでいる。「話を聞いてくれる人が傾聴モードに入っているな、とわかった途端に心を閉ざしてしまう。マニュアルに沿って対応すれば大丈夫だろうと思われているのが透けて見える」だとか「『そうだよね、わかる』という定型句を聞くと『お前に何がわかるんだよ』という気持ちになる」だとか、結構散々な言われようである。もちろん傾聴してもらって嬉しかったという人もいるから一概には言えないのだが、こういう意見もあることは留意しないといけない。
僕は国家公務員を辞めたあと、32歳の少しの間だけハウスメーカーの営業として働いていた。そこでは家を買ったことなど一度もない、貯金ゼロ、うつ病でお先真っ暗な男が、家を買うことに不安のあるお客様の話を聞くためのテクニックというテクニックを仕込まれた。テクニックは仕込まれたのだけど、そもそも家を買った経験のない僕の話になんの説得力があるのか、このテクニックにお客様を惑わせてウン千万円の金を使わせてよいのか、わからなくなった僕は半年でその会社を辞めた。
相談に乗り、悩みを解消し、導くには、経験とテクニックのいずれも必要だが、どちらかというと経験が土台でその上に乗っかるのがテクニックなので、経験のほうが大事だと経験上感じている。最初の話に戻るが、人生経験に乏しいと「まあしょうがないんじゃない?くよくよ悩んでも仕方ないよ。切り替えて行こう」というワイルドカードを出しがちになってしまう。それだけは嫌だから、僕はこれからも様々な事柄に広く深く挑戦したいと思っている。